価値無価値

小説には2種類ある。さっと読めるものとそうでないものだ。
なんて当たり前の話ではある。この2つに優劣はない。そして重要なのは、さっと読めるかどうかというのは価値があるかどうかとは関係ないということである。
難しい言葉や言い回し、難解な思考プロセスを持ったもの=「価値がある」という風に思ってしまうことがある。でも、おそらく価値は個人の趣味嗜好とマッチするか、またはマッチしないにしても優れた視点やアイデア、また新しいものを持ち込んでくるかどうかを読み手が判断したものである。ここで重要なのは、良し悪しを判断するパラメータ自体は読み手個人に依存しており、書き手にはあまり関係無いということである。多くの人が認める小説であっても、私(あなた)にとって価値がないものであるならばそれは(私・あなたにとって)「価値がない」ものなのだ。(逆に考えれば自分にとって価値がないものを褒めている人だっているということである。価値がある/ないと考える・発言することは自由だけど、相手が自分と同じように判断することを強いることは愚の骨頂だ)。さっと読めることに価値を見出す人、見出さない人どちらもいるというだけの話である。
そしてもう一つ、価値判断はその時時によって変化する。いくら知的興奮に満ちた文章であったとしても、38度の熱にうなされているときは無価値だ。

……どんどんはなしがズレてしまう。

阿仁雄「―――結局おにぎりのおいしさって中身の有無とは係わりがない訳じゃない。
    あるとしてもそれは好みでしょ?」

聡子「まあそうですけど、それこそアニメに当てはめたら
   『中身がなくても面白いアニメ』の存在を
   肯定することになるんじゃないですか?」

阿仁雄「そうだね。そしてそれは同時にこう言えるよね
    『中身がなくても面白いアニメがあるということは
    中身が即ちアニメを批判する材料にはならない』と」

教えて!久米田阿仁雄教授! その1、アニメ中身論その是非を問う:じなんだけどアニメ語るよ! - ブロマガ