イメージの顕現についておぼえがき――騎士団長殺し

騎士団長殺し』を読んでちょっと気づいたことを書き留めておく。

村上春樹の作品の主人公たちはちょっと特殊な人たちに見える。やたら丁寧な暮らしをしているし、思考の跳躍が何度も見られる。それを象徴するのが、服装についての細かな描写である。服の色や素材、種類に至るまで、新規の登場人物が登場したとき必ずそれが描写される。私が服に頓着しない性格なのでなおさらそう感じるのかもしれないけれど、他の人が着ていた服を事細かに覚えている人ってあまりいないのではないか。その積み重ねが、主人公たちの非現実性を生んでいるのだと思う。

騎士団長殺し』の主人公でもそれが行われているけど、いつもと使われ方が違う気がする。過去の作品以上に丹念に服装の描写がなされているが、これは主人公の特殊性を外部から観察するためではない。画家として特殊な目をもつ主人公の視点をハックさせているのだ。この作品で扱っている「思考やイメージや幻想の顕現」を体現するために、意図的に入れているのだろう。主人公の「よく見える目」を通して、僕らはイメージを自分の目で見ることになる。

変わる自分を許さない――私が大好きな小説家を殺すまで

『私が大好きな小説家を殺すまで』は、作り出す才能を失ってしまった人間と、崇拝する人間の話だ。人は変わる。ものを作り続けることは途方もなくいろいろなものを投げ捨てる必要がある。しかも自分の根っこに関わってくる。もしそれを失ってしまったら、自分自身を失ったことと同義かもしれない。それでも、そのときはやってくる。

崇拝する人間は、才能と彼自身の両方を崇めている。だが、上記で書いたとおり、才能と人間は分離することが出来ない。だから、神様が能力を失ってしまったとき、崇拝の形を変えなければならない。そのときはやってくる。

帯には「衝撃の結末」と書いてあるけれど、この結末は必然だと思う。何かを作ることは自分をすり減らしていくことだし、作り出したもので他者を多かれ少なかれ変容させることだ。そこを直視できていれば、こんな結末にはならなかったかもしれない。だけど、彼らは変わることから目をつむってきた。二人は才能に執着したいがあまり、自分たちの手で橋を焼いてきたのだ。この二人を頑なで愚昧な了見から救い出してくれる何かがあったなら、というifを考えることはできるが意味はない。残酷で不公平だけれど。

集めることは生きること――オブジェクタム

記憶は全て断片化し、集めておかなければ雲散霧消する。情報もそう。忘れられる権利という言葉があるけれど、大局的に見ればネットの情報のほとんどはアーカイブされず、ジャンクの山として消えていく(もちろん悪意をもってアーカイブされ続ける場合もあり、忘れられる権利が不要なわけではない)し、どんなメディアもいつかは失われる。それでも僕らはいつか消える記憶を蓄えるし、必ず無意味なものとなる情報を知ろうとする。たくさんの欠片をとにかく集めること、まとめることは、いつか失われる自分自身を留めておこうとする意思の表れでもある。

『オブジェクタム』は、失われ続ける欠片を集合させ続ける祖父とそれを見る孫の話である。文章内には失われていく記憶の断片が散りばめられ、一見すべてが関係ないように見える。主人公である孫はその欠片を意味もわからず追いかけながら、それでもその意味を考え続ける。もちろん欠片自身に意味はないし、主人公が考えた意味も勝手な解釈にすぎない。しかし先程も述べたように、情報や記憶の切れ端をまとめ意味付けをすることは、自分自身を立脚し成立させようとする意思なのだ。彼は知らず知らずのうちに祖父からそれを教わり、やがて何らかの意味をまとめあげる。

掲載されている他の短編についても触れよう。『太陽の側の島』は、戦時中に離れて暮らす夫婦の往復書簡から成り立っている。ここで扱われているのは、離れていることがらが何らかによってつながっているということ。南の島にいる夫と日本で暮らす妻子は離れており、手紙によって情報がやり取りされるにすぎない。だけど二人の住む場所はリンクした不思議な出来事が起こる。また夫がいる島では生者と死者の境目がなくつながっている。

最後の夫の手紙で、島の人たちが「どこかからどこかへ移動している」最中であることが示される。彼は自分がその旅に入ってきたよそ者に過ぎないと考えているが、彼も含めてこの世のすべては「どこかからどこかへ移動している」最中なのではないかと僕は思っている。世界の全てはつながっていて、空間も時間も何ら僕たちを分かつものではない。政治的な主義も思想もなく、過去から未来まで、近くから遠くまで、すべてのものは連続的なのだ。

『L.H.O.O.Q』は、亡くなった妻の残した犬を探す夫の話。なんだか『ねじまき鳥クロニクル』で猫を探す話のようだ。犬を失うことでそれを成り立たせていた妻について思考する。この話で目立つのはやはり後半の展開なのだけれど、犬を逃してしまう状況の描写が間抜けでいい。

統制しつくされたミステリ、人間には統制できない探偵――喰いタン

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11月30日まで無料なので『喰いタン』の話を書かねばなるまい。そう決意したはいいものの、『喰いタン』についてはネットの民がすでに書きつくしている。私の駄文を読むよりも、まずはページを開くが良い。

……とはいいながら、自分の感想を書いておこう。『ミスター味っ子』『将太の寿司』なども無料となっているが、私は『喰いタン』を薦めたい。1話完結だし、キャラクターが多くなりすぎないし、何よりもキャラクター探偵ミステリとして目茶苦茶面白く、最後まで完成度が高いからだ。

喰いタン』は、探偵である高野のキャラクターがとても強い。食べる量は人外で、食い物がかかった場合極端に周囲が見えなくなる。ただ、この性質によって全ての謎が解かれる。探偵のキャラクターが謎解きに強く関わっているのだ。それも謎に無理やり食い物を絡ませるわけではなく、食い物が重要なポイントになる事件しか起こらないし、それは食い意地の張った高野にしか解決できないものである。探偵のキャラクターと謎のニーズがこの上なくマッチしているのだ。全ての回がそうなっているというのも驚異的だ。捨て回がない。

また、高野と周囲の人物との関係も、全て食い物によって成立している。食い物(とそれによって我を忘れる性格)の記憶によって高野の評価は決定される。探偵業への評価ですら例外でない。高野と食い物は切り離すことができず、彼のアイデンティティにすら介入する。綺麗事っぽい過去回想もなく、そこそこ重いバックグラウンドも流され、ただ彼は目の前の食い物(とそれを邪魔する事件)によって立ち上る精霊のようなもの。なんというか、『むこうぶち』の傀さんみたいな存在なのではないかとすら思える。一つの強いモチーフを持ったミステリものとして、これ以上強固なキャラクター立てはそうそうないのではないか。

おまけだが、私はサブキャラクターの京子が好きだ。彼女の存在がなければ『喰いタン』は成立しなかったと勝手に考えている。高野の秘書であり、ただ事件を眺める「美雪ちゃん」型相棒だけれど、彼女という存在がついていることで彼は人間界に留まっている。そこそこ常識人である彼女がともにいることで、高野のことをとりあえず人間だと考えることができる。だが彼女も高野に付き合い大量の飯を食べ、それにもかかわらず体型が変化しない。もしかしたら彼女も人外に足をつっこんでいるのかもしれない。少なくとも、他の登場人物より彼女は高野と近い所にいる。だからこそ、彼女は高野に一番近いところで彼の存在を保っている。

通常の人間に近い感覚を持ちながら、高野と寄り添うことのできる京子。日常と異常のあわいを行き来する彼女の立場は、ともすればリアリティレベルを崩壊させかねない高野をつなぎとめている。トラックに積まれた弁当を食い散らかし、100kg以上のマグロを完食する高野というキャラクターを出しながら、『喰いタン』のリアリティレベルを巧みにコントロールできるのは、京子という存在がいるからだろう。この二人が最後まで安易な恋愛話に流れず、それでいながら相棒としてともに居続けるというのもよい。高野と京子、この二人によって作者はミステリと料理をつなぎ、最初から最後まで作中世界を統制しているのだ。

これはアマゾンのアフィリンク。未読の人はこの記事の一番上のリンクから今すぐ読もう。全16巻だがスルスル読めるし、どの話から読んでもいいので気になったFileから流し読みしてもいい。おすすめはFile. 67の『見知らぬ人の家のすき焼きを喰う!!』です(ひどいタイトルだ)。

誤解によって生まれる不思議――今だけのあの子

芦沢央の『今だけのあの子』を読んだ。女どうしの友情に絡まるちょっとした不可解をテーマにした連作集である。

彼女たちの間に起こる不可解は、たいてい主観の誤解によって生まれている。どんなミステリでもそうかもしれない。結末から遡っていけば何も不思議なことはないのに、主観となる人物(語り手、証言者など)が何らかの理由(思い込み、情報不足、撹乱)によって誤解をするから不可思議な点が生まれる。ミステリ作家は、その誤解を生む原因を巧妙に取り込むことで、謎自体を生みだし、輝かせるのである。

それぞれの短編集で扱われる謎は、正直にいうと個別に取り上げれば魅力的なものではない。本当にこんなことが起こるのかなあ、なんて首を傾げざるを得ない部分もある。しかし、この小説の肝は謎ではなく、謎を生み出す誤解にある。彼らがどうして誤解をしたのかが、テーマとなっている人間関係と不可分なものになっているのだ。彼女たちがどういう考えを持ってどういう関係でつながっているかによって、発生した現象が捻じ曲げられて不思議となる。トリックに重きを置かないミステリではとても重要なポイントだ。これを自覚的に押さえ、テーマに発展させているのがこの小説の魅力だろう。

難癖をつけるようで申し訳ないのだけれど、結末の描写がちょっと足りない話がいくつかあると思う。謎を生む誤解とその種明かしまではかなり丁寧に書かれているが、解決後の関係性の変化についてはかなり急ぎ足で通り過ぎていく。ミステリの肝は謎だから、解決後のことに興味を持たれないといえばそれまでだし、普通のミステリであれば気にならないだろう。だけど、この話は全体として登場人物の関係性によって生まれた謎なのだから、謎が解決したことで関係性がどのように変化したのかも欠くことができない。謎を提示するパートと同じくらいに気を配ってあるとより魅力的な話になったんじゃないかなあなんて、偉そうに考えている。もちろん、過不足なくきれいに仕上がっている話もある。

ごちゃごちゃ言ってしまったけど、人間関係に関わるプロセスを丁寧に切り出して、謎を魅力的に見せているきれいな小説だと思う。一番私が気に入っているのは、ちょっと神経質なママを主体にした『答えない子ども』。最初から最後まで、謎の見せ方に無駄がない。

「普通」が崩れるこわさーー鳥肌が

ほむほむ(「愛よ」とか言っている方ではなく短歌作っている方)は、あまりに普通すぎて誰も取り上げないことを適切な言葉で取り出すことができる。短歌評論(出典忘れた)で「歌人ははっとするほど普通の人」ということを本人が言っていたのだけれど、まさにそのとおりだなあと思う。本当に普通のことを普通の最極端で捉え、これ以上ないほどぴったりな(日常の)言葉を使って提示する。こういう文才がほしい。

そんなほむほむの『鳥肌が』を読んだ。タイトルどおり日常の中のこわいことをテーマにした連作集である。エッセイと言ってもいいのかもしれないけれど、空想と現実をはっきり線引きしないところがこの人の持ち味だと思うので、連作集という言葉を使いたい。本人ないしは知人友人の経験から、日常のこわさを見出していく。

語られるこわさを分類すると、ほむほむが何を怖がっているかわかる。主体が自分または他者(環境)の2パターンあり、こわさの原因が「今認識している状態が実は異なっているかもしれない」というものと「今認識している状態が変わるかもしれない」という2パターン。これを掛け算して4パターンである。つまり、普通だと信じているものが普通でなかったり、普通だと信じているものがこれから異質なものに変わっていくということがこわいのだ。どんな人もそうだろう。だけどこれを言語化するのは、よほど「普通」に対して鋭敏でなければならない。「普通」に浸かりきっている人間は「普通」を定義することができないから。

私が好きなのは以下のエピソードである。子どもが生まれた後輩のお祝いに行ったら赤ちゃんを手渡されそうになったときの会話。

夫「慣れてないとうまく扱う自信がないってこともあるけど、別の不安を感じる人がいるらしいんです」
ほ「どういうこと?」
夫「つまり、一度も赤ちゃんを抱いたことのない人は、実際にそうした時、自分が何をするかわからない、って思うことがあるみたいなんです」
ほ「何をするかって、例えば……」
妻「窓からぽいって捨てちゃうとか」

こわいですね。