『銭』という漫画に出会ったのは高校時代に通っていた皮膚科である。どうしてそこに置こうとしたのか、その意はわからない。その頃の私は、本や漫画が置いてあればすぐに飛びついていた。小遣いなどたいていもらってすぐに書籍に変身していたのだ。

最初に抱いた感想は、「なんか面白いけれど読みにくい」というものであった。
書かれている情報は出会ったことのないものであり、知らない世界を覗いているようでドキドキした。純粋というか世間知らずなアホ高校生にとって、世界を実際に動かす金の話はムー大陸のような未知の領域。そこをゲスくえぐり取る筆致が新鮮だったのだ。
ただ、読みにくかった。知らないことが書かれている本というのはたいてい読みにくいものなのだが、その本の読みにくさは少々性質が違った。だけど、高校生の頃はそれを明文化する言葉をもたなかった。『銭』には、チビチビと読み進めては何度もページを行きつ戻りつする本という印象が残った。

大学生になって、福本伸行の本を読むようになった。『アカギ』、『天』、『銀と金』。麻雀も私にとっては知らない世界だった。ルールなどわからず、ただ点数と科白とキャラクターの表情を追いかけていた。だけど、こちらはページを行きつ戻りつせずに読めた。たいてい主人公と敵がいて、どちらかが優位になったり不利になったりしながら、薄氷を踏むような戦いに臨む。情報を咀嚼せずとも、悪い言い方をすれば前のコマの情報をきちんと理解していなくても、流れに寄り添うことができる。逆に、きちんとゲームを理解しようとすると、コマの内容を一つずつ理解していかなければならない。

そう。『銭』は、コマの内容を一つずつ噛み締めないと、次のコマに進むことができなかったのだ。読者に考えることを強いる。というか、読者の理解を信頼しているのだと思う。
思うに鈴木みそという人は、非常に聡い人なのだろう。すべての物事を自分で考えていき、飲み込んでいくことができる人。だから、漫画のネームにそれを落としたときに、「考えればわかる」部分をどんどん省略していくのではないだろうか。

それに気づいた後、『銭』を自分で買って読み直したら前より面白かった。自分の知識が少し増えていたのもあるし、お金を生活の中で使うことが増えたというのもある。だけど、一番変わったのは、コマとコマの間にある思考を前提にして読むようになったこと。こうすると、他の漫画も面白くなるのだ。

最近はkindle unlimitedで鈴木みそ作品を読んでいる。やはり、思考の省略をちゃんと埋めていくとすごく面白い。