何もなく通り過ぎていくという悲劇――ハラサキ

「ひなちゃんのしたこと、あたしは許せそうにない」

幼少期の記憶を覚えていない女性が婚約を期に故郷に帰る。電車の中で気を失って目覚めると、駅の外には女性が倒れていた――。

あらすじの通り、幼少期の記憶がない女性とその婚約者の男性の目線で彼女の過去に迫っていくホラーである。二人は離れていて、女性は異世界から、男性は現実から消えた記憶を補い合う。過去を掘り探るサスペンスではなく、謎の影に襲われるホラーをメインにすることで、最後まで緊張感をもたせるアイデアが光っている。

この小説を読んで思ったのは、呪いや恨みによって報いを受けるのは、真に事件を引き起こしたものや原因になったものではなく、思い入れが一番強いものであるということだ。いや、すべてが原因だからこそ、自分の気持ちが一番向いている対象にこだわってしまうのだろう。だから、「どれだけ対象への思いが強いか」をきちんと描写したホラーは面白い。でもその分だけ、本来原因になっている他の人にとっては何もなく事件が通り過ぎてしまうという、その事実がやるせない。

エロ界の水戸黄門――どす恋ジゴロ

前回『任侠沈没』を読んで、こりゃあ勢いのある漫画を読まなければ、というか勢いしかない漫画を読まなければ!という謎の思いに誘われ、平松伸二の漫画をいろいろ漁っていた。
みんなだいすき平松伸二。『ブラック・エンジェルズ』の思い出を聞くと、たいてい「ラーメン屋で読んだ」「床屋で読んだ」という答えが返ってきたりする。私はつくばの巨大チキンカツで有名な夢屋で読んだ覚えがある。
勢いしかない漫画としては『ザ・松田』とかを読めばいいのだけれど、ちょっと変化球にしたくて、『どす恋ジゴロ』と、続編の『嗚呼どす恋ジゴロ』を読んだ。大学生の頃に1話だけ読んだことがあったので、ちゃんと読み返したいという気持ちが湧いたのだ。

昼は名勝負で客を沸かせる関脇、夜は女性を沸かせる名ジゴロの恋吹雪。字面にしてもよくわかんないですねこれ。まあ、不幸な女性を一夜の契りによって幸せにする「あげちん」の話です。
平伸特有の勢いというか「こまけえことはいいんだよ」分がしっかりしている。コメディと人情を混ぜつつ、『ブラック・エンジェルズ』ほど暗いところや過去回想もなく、1話1話をさっぱりと読める。オチがハッピーエンドになるのが決まっているのは水戸黄門とかサザエさんっぽい。エロ界の水戸黄門2強である(もう一つは『男!日本海』)。
また平伸にしては珍しく、個人が持つ能力のレベルを都合で捻じ曲げたりしないところもいい。まあ、あれだけ勝ちまくっている恋吹雪がどうやって関脇という立場を守り続けているのかはちょっと気になるけれどね。

私はエロがあまり好きではないのだけれど、こういう「少しズレたエロ」を扱う話は割と面白いと思う。多分、エロに含まれる欲望に対して設定が緩衝材となってくれるからなのだろう。

(勢い)(勢い)(勢い)――任侠沈没

某ツイッタラーさんが勧めていたのでちょこっと覗いてみたら……あっという間に最後まで読み切ってしまった。

侠気あふれるヤクザ、大紋寺龍伍。組を思って組長の息子を斬ったがゆえ恨まれ、妻と子を殺されてしまう。仇討ちのため、組長のいる東京に向かおうとしたそのとき、大地震が日本中を震わせた――。「任侠もの」+「日本沈没」、さいとう・たかをの『サバイバル』に目的は近いのだけれど、多くのトラブルを「任侠」によってクリアしていく前代未聞の漫画である。

そもそも地震が起こっちゃったら仇討ちどころではないのでは、と立ち止まる読者を置き去りにし、「任侠」の文字しか脳みそに入っていないような舎弟を引き連れ大暴れをする。大災害に負けないどころか、大災害を味方につけて人を斬ったりバイクでチキンレースをしたり人を地割れに落としたりする。そんなことしている場合ではない、という舎弟の言葉がたまーに入るのだけれど、主人公の頭にあるのは一つ、「ここで引き下がれば侠じゃねえ」、ただそれのみ。それで納得する舎弟もヤバイな。

ただただ勢いだけで邁進する漫画なので、すべてまとめて一気に読むことをおすすめします。というか、少しずつ読んでいたらストーリーの破綻に目が行き過ぎて読めなくなるので、頭を空っぽにして望みましょう。幸い、全3巻と短いです(これくらいスッキリしてるほうがいいですよね、というかこの設定ではそれ以上の長さは出来ないだろうな……)。

プラネット・ウィズの雑多な感想

『プラネット・ウィズ』を見た。何というか、『テニスの王子様』とコロコロの販促漫画(ベイブレードとかミニ四駆とか)をあわせたみたいなバカアニメで面白かった。

面白かったところ、気になったところをメモしておく。以下ネタバレ。

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小さなスケッチで世界を満たす――メルカトル

救済院の寮母たちは、子どもたちに触らせたくないものにわざと気味の悪い名前をつける。応接室にある椅子のことも「ひきがえる」と呼んだ。詰めもので膨らませた布団とひしゃげた短かい脚のシルエットがひきがえるにそっくりだったからだ。それらの椅子は、実は高級な羽毛で膨らませてあり、視察に訪れる議会の長老や教育長をもてなすためだけに用意されていた。

小説の組み立て要素は物語と構成と描写で、それらは不可分なものであると個人的に思っている。けれど、作者の得意分野がどれかに偏るのはどうしても避けられない。私は構成に目が行くタイプだけれど、それを上回るような圧倒的な描写や物語に飲み込まれることもある。

長野まゆみは描写が圧倒的にうまい。小さな描写の断片によって物語の外枠を作るような作家だ。衣服や情景、科白に含まれる形容詞、そのようなスケッチの一つ一つによって、実際に語られずとも物語が生まれ、進んでいく。その分、細かい説明は省かれている。

『メルカトル』もその中の一つで、かなり短めの中編だ。孤児のリュセは地図収集館で働きながら慎ましく暮らす17歳。周囲の人物にもあまり省みられない(と本人は思っている)中、一通の手紙が届くところから物語は始まる。
リュセに関わる人物の服装やその中で出てくるアイテムなど、細部は緻密に描写されているのだけれど、それが重大な出来事である、という強調はなく、リュセ自身の感情にも最低限しか触れられていない。
まったく物語に関係ない部分の感情が説明言葉になっていて、重大なイベントについての説明はなく、読者の想像に委ねられている。

同作者の有名作『テレヴィジョン・シティ』では、この「説明のなさ」が登場人物たちの置かれた孤独、周囲が存在しないという状態とシンクロしていた。『メルカトル』では、リュセの内部にある虚ろ、現実の人間にわざと興味を持たないようにするそのあり方にマッチしている。説明できるほど周囲がないのではなく、彼自身が周囲に対して説明できるほどの情報を持たない(ようにしている)のだ。

だけど、あなたは見えていないところのことなんて、少しも考えてくれないんだもの

筋立て自体は割と本の初めからある程度予想できる、シンプルなものとなっている。だけど、間を埋める描写が細密画を描き、リュセが見えていない世界の奥行きを作っている。このくらい緻密に見える観察眼をもっているのなら、世界は驚くほど美しいのだ。うらやましい。