みんなで突っ込もう「性格悪い!」――火の中の竜 ネットコンサルタント「さらまんどら」の炎上事件簿

ネット炎上、毎日してますよね~(小林製薬
インターネットの片隅で、毎日誰かがどこかでスターになって燃え尽きていく。むしろこれだけ毎日燃えているのなら誰も注目しないんじゃないか……なんて思ったりするけれど、ひとときの怒りを娯楽としたくてみなクリックを行い、燃える。そして消える。消費されていく怒り、そしておもちゃにされるヒューマン。ループ時空に閉じ込められたようだ。たまにヲチしてしまうことがあるけれど、ちょっと目を離したら新たなネタが増えている。それくらい飽和している。

『火の中の竜 ネットコンサルタント「さらまんどら」の炎上事件簿』は、こういう炎上事件をトリッキーな方法で解決する、というか引っ掻き回すコンサルタントの話である。探偵ものによくある「わざわざぐいぐい乗り込んで引っ掻き回す探偵こそが事件の元凶なのでは……?」という問題を見事解決したというか、そのテーマ自体をおおっぴらにフィーチャーした作品である。

火中の栗を勝手に拾って火傷する探偵はお腹いっぱいになるほど面倒くさい性格をしている(でも顔がいい)。面倒くさい過去を持っている(でも顔がいい)。巻き込まれ助手も、ゆかいな仲間たちも、当然面倒くさい性格をしている。タナトスシリーズとか犯罪研究部よりは希釈されているけれど、汀こるものが書く面倒くさいタイプの人たちがセット販売増量中。もう、こいつらどうしようもないな!

この本のすごいところは、「事件が解決した」=「当事者にとっての目的を達成した(あるいは失敗した)」という部分を割り切っている点である。探偵が一番それらしい(話として面白い/スッキリする)解釈を提示してめでたしめでたしというのはミステリの類型で、どんでん返し系でもこれは結構守られている。
問題は、これが事件の「真実」として語られやすいということ。この場合、読者が少しでも違和感を感じてしまったら物語として失敗してしまうリスクがある。また、それが探偵の作為である(可能性がある)ということが隠蔽されているので、登場人物の受け取り方と読者の受け取り方に齟齬が出やすい。つまり下手な作品だと「こいつらちょっと頭悪すぎない?」「こんなに探偵の性格が悪い/動き出しが遅いのに、関係者の中で聖人化されすぎてない?」ということが起こりやすいのだ(こういうところが上手に処理されているミステリには腕を感じる)。
『さらまんどら』の場合は、「おめーらにとって都合のいい理屈を出してやりましたよ、気持ちよくなったでしょう」という探偵の悪意が隠されていない。ちょっと正直すぎて心配になるくらいだ。だからこそ、関係者と読者の受け取り方がシンクロしやすい。

上記のように受け取り方のシンクロをより楽しみたいのであれば、すぐに読むことをおすすめします。なぜなら、扱っているテーマやコネタが時事や現在のネットミームや流行をばんばん取り入れたものだから。10年後に読んだら意味がたぶんつかめなくなっている、もしくは思い出みたいな扱いになっているだろう。そうなってしまったら、この本の悪意と嫌味が5割引でもったいない。

雪の断章

『雪の断章』は孤児を描いた話であるけれど、それ以上にヒールをきちんと描写した物語である。孤児をすくい上げる王子の影はむしろ薄く、『あしながおじさん』とか『キャンディ♥キャンディ』を唾棄してきた人にこそ読んでほしい。

……というところで感想を終わらせればいいのだけれど、私は余計なこと書くマンなので余計なことを書いていく。

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信じるものは救われない――彼女がエスパーだったころ

宮内悠介は、考えすぎた人の行き着くエモーションを書くのがうまいと思う。自分の問題を自分の思考で解決しようとした結果、なんだか突拍子もなかったり、常人では考えつかないような結末に至る。本人が自分自身で進んだ結末だからこそ、始末に終えないほど救いがないこともある。

『彼女がエスパーだったころ』は、疑似科学と論理のあわいをテーマにした短編集だ。百匹目の猿現象をテーマにした『百匹目の火神』、スプーン曲げをテーマにした表題作、ロボトミーをテーマにした『ムイシュキンの脳髄』、いわゆる「水からの伝言」をテーマにした『水神計画』、レメディをテーマにした『薄ければ薄いほど』、そして匿名会とティッピング・ポイントをテーマにした『佛点』で構成されている。
ラストにティッピング・ポイントの話を持ってきているのは、この短編集全体が「ギリギリのところを揺れ動いている人たち」を描いているからなのだと思う。

この短編集で私が一番好きなのは、登場人物たちの出した結末に対して語り口がフラットな点である。
疑似科学というのはとても不思議で、科学的説明がつけばつくほど胡散臭さが強くなる。怪しい理屈も閾値を超えればどんな論理よりも強固な理由となって人の脳にしがみつく。だからこそ、あわいを揺れ動く人たちは疑似科学に心を動かされていく。
それは救いではないのかもしれない。だけど、本人が自分で選んだというそれ自身によって強くモチベートされている人たちに、どのような言葉をかければいいのだろう? 我々が信じているものと疑似科学にはどれほどの違いがあるのだろう? 自分の感情や思いつきに理屈という蓋をしている我々と、ガンを治したい一心で水素水を鯨飲する彼らに。
この小説は、それを分離しない。だから愛おしい。

跳躍する思考は消えて――言壺

神林長平の『言壺』を始めて読んだ。円城塔の『文字渦』とちょっと比較してみたかったというのもある。でも、扱っているテーマがそんなに似ていないので、これ単体で感想をまとめておいた方がいいように感じた。もしかしたら後で比較するかもしれない。

『言壺』は、文章作成システムというツールが思考自体を変容させていくさまを描いた小説だ。我々は何度もこれを経験している。縦書きの日本語が横書きになったとき、筆からペンで書くようになったとき、手書きからワープロになったとき。ツールが変わると文章が変わり、文章を書いている間の思考も変化する。手書きで書けないような漢字をブログやツイッターで頻繁に使っていたりする。その場でわからないことをgoogle検索してさもわかったように書いたりする。『言壺』で書かれているような変容は、現に今起こっていることなのだ。

この本を読んでいて少し気になったのが、ツールによって思考の内容が変わっても、思考の手順はあまり変化していないところだ。神林長平の小説に出てくる登場人物は、三段論法のように丁寧な思考をすることが多い。会話でも、相手の言葉がどのような思考手順を経ているのかいちいち確認しながら進む。
だけど、これは私の勝手な予想なのだけれど、『言壺』に出てくる支援システムのワーカムを使い続けると、こういう手順が必要なくなるのではないだろうか。文章を書いている間にワーカムが思考を確認し、整理してくれるからだ。だから、手順をいちいち確認するような思考より、自分の考えていることや感情が1プロセスで終わるような思考が主流になるんじゃないかと想像していた。でも、この本の登場人物たちはワーカムを使い続けても思考の手順をきちんと踏み固めていく。思考の内容のみが変化していく。そこが少しだけ不思議だ。

まあ、こう考えることもできる。思考をいちいち聞き直されるツールを使っているのだから、自分の思考もいちいち聞き直しながら進めるようになるのかもしれない。そうすると、手順の確かめがより強固なものになる、かもしれない。思考の様式自体がワーカムに模倣されているから、そこは変化しないということかもしれない。

,だけどもし、ワーカムによって「整頓された思考」の均一化が起こっていたとしたら。それは非常にスケールの大きな人類統一だ。思考の跳躍は人間の特権なんて真賀田四季が言っていたような気もするけれど、ワーカムはそれを消し去っていくのかもしれない。

鬱ごはん

『鬱ごはん』を久しぶりに読む。ご飯を不味そうに食べている漫画だけれど、この不味そうな思考も含めて主人公は楽しんでいるのだろうなあ、なんて考えるようになった。ご飯を食べることを他人とのコミュニケーションに使う場合もあるけれど、自分一人ならそのリソースを食べ物や自分自身に振り分けることになる。それって、結構贅沢なことだと思う。

トイレに賞味期限切れの缶詰を捨てていく話が一番強い。グルメ漫画で「食物を廃棄する行為」をテーマにすることはほぼない。『美味しんぼ』みたいな社会問題の文脈で廃棄が語られることはあるかもしれないけれど、個人の生活の中で起こるそれはなかなか取り上げられない。でも、これだって自分と食べ物の付き合い方のひとつだ。トイレの臭いと交じる食べ物のニオイに吐き気をもよおしながら、目を合わせずに捨てていく。その過程に向き合うのは、孤独であることに含まれた大きなイベントだし、食べることの一つに含んだっていいだろう。そこを分け隔てしないところが施川ユウキのすごいところかもしれない。

ニルヤの島(その2)

昨日は『ニルヤの島』について文章を書いたのだけれど、自分が好きなポイントや面白かった部分についての記述がちょっと足りないなあと後で思い直した。ので、書く。

『ニルヤの島』の面白さは、登場人物の抱える空虚や茫漠をそのまま描いているところだ。人生の記述、そして記憶の断片化。この世界の人間たちは、自分の見ているものや感じているものが自分の脳というフィルターを通したものであることを日々突きつけられながら生きている。また、それらの技術が開発される前の人たちも、自分の感覚に対して懐疑的にならざるを得ない状況にいる。このような人たちが自分の感覚を語るとき、自分の語りおとしや認知のしおとしを強制的に感じ取ることになる。だから、自分が抱えている虚ろがそのまま語り口調に含まれている。この作者は、それを書くのが異常にうまい。

これはちょっとネタバレにもなるのだけれど、ジーン(遺伝子)とミームが抱える余白と不確定性の問題が、彼らの言葉にはそのまま表れている。ある方向を目指すことはできても、その方向を決定することはできない。我々はジーンとミームという2つの暴れ馬に乗った哀れな馬主で、馬の手綱を手持ち無沙汰に引っ張ることしかできない。そのコントロール不可能なところが、上記の茫漠に直接つながっていく。

以上の2つのテーマが緻密な理屈によって折り重なっていくのが魅力的なのだ。

自分自身をコントロールできないという問題には、柴田勝家の次の作品『クロニスタ』にも含まれるテーマである。こっちも面白いです。

ニルヤの島

なるべく好きなものの話だけ書いていたいものだけれど、苦手なものや嫌いなものの感想のほうが筆が進んでしまう。性格が悪いのだと思う。今日は好きなものについて書こう。

というわけで『ニルヤの島』を取り上げる。見た目も性格もなかなか濃い柴田勝家(作家)の初刊行作。己の人生をいつでも叙述できるようになった世界では、死後の世界や宗教という存在がなくなっていた。そんな中、文化人類学者のノヴァクは、ミクロネシアの経済連合体にて死後の世界を語る老人に出会う……という話。
それぞれの章によって視点が異なり、時系列もバラバラになっている。それは、世界がナラティブな視点で語られるようになった人類の主観にも近似している。この断片化と並び替えが世界の根本に欠かせない世界を描いているので、あたかもそれを追体験しているような気分になる。ただ、話を通して理解するには何回か読み返す必要があるだろう。

そもそも、死後の世界がなくなるとはなんなのだろう。死後の世界は生者にしか存在しない。そんなことはみなわかっているはずだ。信仰の種類や強度は人それぞれだけど、自分が信じていることと死後の世界が不可分であることは明確である。私は、世界の物語化によって自分の思考に間隙が生まれなくなり、それによって死後の世界を信じる余地がなくなってしまったということなのではないかと理解している。多数の人間の意識が集合することで、死後の世界が「生まれ直す」という過程は、電子の海による宗教の誕生を見るみたいでどきどきする。