小さなスケッチで世界を満たす――メルカトル

救済院の寮母たちは、子どもたちに触らせたくないものにわざと気味の悪い名前をつける。応接室にある椅子のことも「ひきがえる」と呼んだ。詰めもので膨らませた布団とひしゃげた短かい脚のシルエットがひきがえるにそっくりだったからだ。それらの椅子は、実は高級な羽毛で膨らませてあり、視察に訪れる議会の長老や教育長をもてなすためだけに用意されていた。

小説の組み立て要素は物語と構成と描写で、それらは不可分なものであると個人的に思っている。けれど、作者の得意分野がどれかに偏るのはどうしても避けられない。私は構成に目が行くタイプだけれど、それを上回るような圧倒的な描写や物語に飲み込まれることもある。

長野まゆみは描写が圧倒的にうまい。小さな描写の断片によって物語の外枠を作るような作家だ。衣服や情景、科白に含まれる形容詞、そのようなスケッチの一つ一つによって、実際に語られずとも物語が生まれ、進んでいく。その分、細かい説明は省かれている。

『メルカトル』もその中の一つで、かなり短めの中編だ。孤児のリュセは地図収集館で働きながら慎ましく暮らす17歳。周囲の人物にもあまり省みられない(と本人は思っている)中、一通の手紙が届くところから物語は始まる。
リュセに関わる人物の服装やその中で出てくるアイテムなど、細部は緻密に描写されているのだけれど、それが重大な出来事である、という強調はなく、リュセ自身の感情にも最低限しか触れられていない。
まったく物語に関係ない部分の感情が説明言葉になっていて、重大なイベントについての説明はなく、読者の想像に委ねられている。

同作者の有名作『テレヴィジョン・シティ』では、この「説明のなさ」が登場人物たちの置かれた孤独、周囲が存在しないという状態とシンクロしていた。『メルカトル』では、リュセの内部にある虚ろ、現実の人間にわざと興味を持たないようにするそのあり方にマッチしている。説明できるほど周囲がないのではなく、彼自身が周囲に対して説明できるほどの情報を持たない(ようにしている)のだ。

だけど、あなたは見えていないところのことなんて、少しも考えてくれないんだもの

筋立て自体は割と本の初めからある程度予想できる、シンプルなものとなっている。だけど、間を埋める描写が細密画を描き、リュセが見えていない世界の奥行きを作っている。このくらい緻密に見える観察眼をもっているのなら、世界は驚くほど美しいのだ。うらやましい。