信じるものは救われない――彼女がエスパーだったころ

宮内悠介は、考えすぎた人の行き着くエモーションを書くのがうまいと思う。自分の問題を自分の思考で解決しようとした結果、なんだか突拍子もなかったり、常人では考えつかないような結末に至る。本人が自分自身で進んだ結末だからこそ、始末に終えないほど救いがないこともある。

『彼女がエスパーだったころ』は、疑似科学と論理のあわいをテーマにした短編集だ。百匹目の猿現象をテーマにした『百匹目の火神』、スプーン曲げをテーマにした表題作、ロボトミーをテーマにした『ムイシュキンの脳髄』、いわゆる「水からの伝言」をテーマにした『水神計画』、レメディをテーマにした『薄ければ薄いほど』、そして匿名会とティッピング・ポイントをテーマにした『佛点』で構成されている。
ラストにティッピング・ポイントの話を持ってきているのは、この短編集全体が「ギリギリのところを揺れ動いている人たち」を描いているからなのだと思う。

この短編集で私が一番好きなのは、登場人物たちの出した結末に対して語り口がフラットな点である。
疑似科学というのはとても不思議で、科学的説明がつけばつくほど胡散臭さが強くなる。怪しい理屈も閾値を超えればどんな論理よりも強固な理由となって人の脳にしがみつく。だからこそ、あわいを揺れ動く人たちは疑似科学に心を動かされていく。
それは救いではないのかもしれない。だけど、本人が自分で選んだというそれ自身によって強くモチベートされている人たちに、どのような言葉をかければいいのだろう? 我々が信じているものと疑似科学にはどれほどの違いがあるのだろう? 自分の感情や思いつきに理屈という蓋をしている我々と、ガンを治したい一心で水素水を鯨飲する彼らに。
この小説は、それを分離しない。だから愛おしい。