跳躍する思考は消えて――言壺

神林長平の『言壺』を始めて読んだ。円城塔の『文字渦』とちょっと比較してみたかったというのもある。でも、扱っているテーマがそんなに似ていないので、これ単体で感想をまとめておいた方がいいように感じた。もしかしたら後で比較するかもしれない。

『言壺』は、文章作成システムというツールが思考自体を変容させていくさまを描いた小説だ。我々は何度もこれを経験している。縦書きの日本語が横書きになったとき、筆からペンで書くようになったとき、手書きからワープロになったとき。ツールが変わると文章が変わり、文章を書いている間の思考も変化する。手書きで書けないような漢字をブログやツイッターで頻繁に使っていたりする。その場でわからないことをgoogle検索してさもわかったように書いたりする。『言壺』で書かれているような変容は、現に今起こっていることなのだ。

この本を読んでいて少し気になったのが、ツールによって思考の内容が変わっても、思考の手順はあまり変化していないところだ。神林長平の小説に出てくる登場人物は、三段論法のように丁寧な思考をすることが多い。会話でも、相手の言葉がどのような思考手順を経ているのかいちいち確認しながら進む。
だけど、これは私の勝手な予想なのだけれど、『言壺』に出てくる支援システムのワーカムを使い続けると、こういう手順が必要なくなるのではないだろうか。文章を書いている間にワーカムが思考を確認し、整理してくれるからだ。だから、手順をいちいち確認するような思考より、自分の考えていることや感情が1プロセスで終わるような思考が主流になるんじゃないかと想像していた。でも、この本の登場人物たちはワーカムを使い続けても思考の手順をきちんと踏み固めていく。思考の内容のみが変化していく。そこが少しだけ不思議だ。

まあ、こう考えることもできる。思考をいちいち聞き直されるツールを使っているのだから、自分の思考もいちいち聞き直しながら進めるようになるのかもしれない。そうすると、手順の確かめがより強固なものになる、かもしれない。思考の様式自体がワーカムに模倣されているから、そこは変化しないということかもしれない。

,だけどもし、ワーカムによって「整頓された思考」の均一化が起こっていたとしたら。それは非常にスケールの大きな人類統一だ。思考の跳躍は人間の特権なんて真賀田四季が言っていたような気もするけれど、ワーカムはそれを消し去っていくのかもしれない。