リソースの割り振り方――彩紋家事件

『コズミック』を遠い昔に読んで異様な衝撃を受けた覚えはあるのだけれど、『カーニバル』や『ジョーカー』は未読である。なぜか今回は『彩文家事件』と『コズミック・ゼロ』を読んだ。
読んだ感想を一言でまとめると、「『コズミック』の面白さって大量に人が死ぬことじゃなかったんだな」ということである。
今日は『彩文家事件』の感想を書く。

流水大説は大量の文章によって目眩ましされる大法螺である。京大ミス研を追い出されたとかそういう逸話からもわかるとおり、一般的なミステリと同じ感覚で読むと途方にくれるかもしれない(余談だがアンサイクロペディアの清涼院流水の項には「壁投げ本テロリスト」と紹介されており笑ってしまった。やたらこだわって書いてあるので必見)。
『彩文家事件』もご多分に漏れず、壮大な大法螺を文章の嵐によって包んだものとなっている。やたら複雑な関係をもつ奇術師一族が、毎月十九日に一人ずつ怪死する。全ての死は奇術に関わるものとなっており、他殺とは思えない状況ばかり。JDC創設初期の鴉城蒼司と螽斯太郎が捜査に当たるが死は止まらない。これは連続殺人なのか、それとも――という感じである。
他の流水大説とちょっと違う特徴としては、事件パートよりも作中の奇術サーカスへの描写と奇術うんちくが多いところかもしれない。別にそれが悪いというわけではない。京極堂の妖怪講義だってそうだろう。
この本で気になったのは3つ。「奇術パートの分量が必要以上に多い」「事件のゴールが曖昧である」「登場人物に魅力がない」というところだ。

  • 奇術パート長すぎ

奇術のトリック自体が事件の解決に関与するとされており、術サーカスの公演全てをまるまる描写してある、はずなのだけれど、トリックを知ったとき、そして事件の謎が解けたときのカタルシスが少ない。それは、文の取捨選択があまり成されていないために、必要な奇術の部分が目立たなくなってしまうからだろう。
『コズミック』はひとりひとりの事件を超高速で流す話だったからそれでいい。でも、彩文家事件は事件数が少ないので詳細に目を向けたくなる。そこに問題が割かれておらず、奇術の話ばかりされてしまうので、消化不良のままで読み進めることになってしまう。

  • 事件のゴールが曖昧

依頼は「連続殺人ではないと証明してほしい」というものであった。それに対してのアンサーは示されていない。そして、この事件が九十九十九と鴉城蒼司によって解決されたという触れ込みなのだけれど、ちょっとだけネタバレすると、この二人はあまり解決に寄与していない。
この本が事件の記録であるならばいいのだけれど、伝説の探偵の遍歴の一つとして位置づけるなら、二人がどういうゴールに至ったのかを明確に示してほしかった。

  • 登場人物……

一番強く感じたのはこれである。『コズミック』が毀誉褒貶入り混じっていても何だかんだで言及されまくったのは、最後まで読ませる力があったからだ。それは、事件の破天荒さやメチャクチャな言葉遊びの洪水だけではなく、登場人物に魅力があったからだと『彩文家事件』によって気付かされた(このことはスケール最大の『コズミック・ゼロ』を読んで余計に強くなった)。
彩文家事件では、螽斯太郎の目を介して人物が描写される。登場人物が多すぎることへの配慮からか、非常にテンプレートに沿った人物が多い。その分、個々の魅力が減少しているのだ。螽斯太郎の目によって神格化された鴉城総代が一番個性的に書かれてはいるのだけれど、螽斯の崇拝と私からみた総代のギャップが大きすぎて、いまいち人間像を結べなかった。
『コズミック』には九十九十九というスタープレーヤーがいた。その他の必殺技でも打ちそうな探偵たちも、壮年となった鴉城総代も、事件に強く関わる人たちはみなちゃんと「すごい人たち」として見えていたのだ。これは、『コズミック』が捜査編にある程度重きを置いていたのに対し、『彩紋家事件』では奇術の説明に終始していたからだろう。リソースの割り振り方があまりうまくない。

貶してきたようで気がひけるけれど、『彩文家事件』はコンパクトなわりに事件のスケールが大きいのが良い。『コズミック』で読者の度肝を抜いたエンディングに近い真相が開示されるところも「大説読んだなあ」という気にさせてくれる。そして、講談社ノベルスの体裁を活かして視覚的効果を上げているのだけれど、それは『コズミック』よりうまいと思う。

何だかんだ言ったって、こういう作品を書いて商業ラインに乗せられるのは清涼院流水だけだろう。オンリーワンは、強い。