本を投げることすらできやしない――コズミック・ゼロ

人間が、たくさんいる。

シンプルすぎて斬新ですらある書き出し。元日午後零時に初詣客が多数消失、それとともに警視庁などが謎の集団に占拠される。それは『日本絶滅計画』の始まりだった――。

消えた家族を探す婚約者ペアとその家族を中心に、SISとかCIAとか頭の悪そうな首相とか謎の天才集団とかその設定意味あんのかわからん北の工作員とかがわちゃわちゃしながら、日本にいる人たちががっさがっさ減っていく。これが『コズミック・ゼロ』である。
私はひとつ誤解をしていたのだが、特に『コズミック』の続編というわけではない。元日初詣に事件がスタートするところが揃えてあるので、帯に書いてあるとおり「新たなるデビュー」、リスタートという意味をもたせてあるのだろう。スケールはやたら大きくなり、言葉遊びはほとんどなくなった。キテレツミステリではなく、サスペンスの方に舵をきった作品だ。

この本は、非常に清涼院流水の苦悩が伺える。大説はだいたい事件のスケールが大きすぎて、うまく風呂敷をたためない傾向にある。「これで風呂敷畳みましたよ!!!!!」というぶん投げ奇想天外オチ(とそれを支える大法螺)こそが醍醐味なんじゃないかと勝手に思っているのだけれど、個人が納得できるラインは異なるし、それによって御大はたくさんの批判を受けてきた。
解消を試みるならば、「強度の高い法螺を吹いて居直る」か、「事件のスケールを縮小してハンドリングできるようにする」か、「批判など見なかったことにする」などの手がある。だが、御大はリスタートした。「強度の弱い法螺」と「ぶん投げたオチ」を伴って。

『コズミック・ゼロ』は、スケールがめちゃくちゃ大きい。大オチは流石に言わないけれど、人がアリんこみたいに消えていく。
また、舞台は現実に寄せている。ありえないことがあなたの身にも起こるんですよ、という緊張感を高め、サスペンスへの没入を促しているのだろう。
その分、事件を支える屋台骨となる大法螺はとってもチャチになった。絢爛豪華な言葉遊びや魅力的なバトルキャラ探偵犯人その他諸々は消え、歴史とかを背負った一本背負投どどんぱ大法螺はフェードアウトし、つまらない理由によって記憶に残らない人たちが大きな事件を引き起こし巻き込まれるという、どうしていいかわからないものになってしまった。謎の超能力集団ですら記憶に残らなくなった(しかもこの能力をほとんど活かさずに出番が終わる!)。法螺を叫び続けずにスケールだけ大きくされると、宙ぶらりんになってしまう。しかも現実を思わせるよう細々書いてあるにもかかわらず、事件の成立条件などの読者が知りたい細かいところは一切詰められていない。
本にのめり込むことが出来ないまま人が死んでいき、アメイジングでマッドな法螺もなく、思い入れのないキャラクターが死んだり立場が変わったりするのを冷めた目で見つめることしかできない。何のインプレッションも与えない。大オチで本を投げつけることすらできやしない。

……いや、作者がこのような境地を目指したのであれば、それに他人が口を出してはいけないのだろう。これは小説を書くことが出来ない人間の遠吠えでしかない。でも最後に言わせてくれ、英語と日本語で同内容をわざわざ並列しなくても良かったんじゃないかな……。