人間失格

野崎まどの『ファンタジスタドール イブ』は最初の1行でわかるくらいに『人間失格』を下敷きにしている。『人間失格』のミームの強さというか、一読してメインの文章を覚えてしまうくらいの強烈さにはっとなって、読み返していた。

夏目漱石は情景描写がうまいけれど、太宰治は独白がうまい。『駈込み訴え』とかを例に引かなくても、登場人物の独白で急にいきいきしてくるのがわかる。『走れメロス』は3人称描写だけれど、ナレーターが強烈すぎるというか、個性を持った人間がメロスを実況しているような文章になっている。

だけど、太宰の書くカギカッコでくくられた台詞はあまり印象に残らない。地の文が誰かの独白を表すときに、激しい躍動が感じられる。そんな不思議な文章だ。「『人間失格』は、これは自分の物語だと読者に思わせるのが抜群にうまい」と書いていたのは誰だったか忘れてしまったけれど、的を射た意見だ。それは多分、長い長い独白を読むうちに、あたかもそれを自分が独白しているようなオーバーラップが起こるからだと思う。

大抵の人間は思考が音でできている。考えていることを頭の中で音として反芻している(実は私はそうでないのだけれど、これについては話すと長くなるので割愛)。本を読んでいるときも同じで、目にした文章をかなり端折りながら音声化しているらしい。太宰の書いた本は独白が非常にこなれているので、その文章を読むうちに音声がオーバーラップして、あたかも自分が喋っているような気持ちになってくるのではないだろうか。かなり雑な憶測だけれど。