カメラを止めるな!

見てきた。
お盆ラストの日曜日とあって、映画館は満員。出遅れたので仕方なくかなり前の方の席を取って見たら酔った。手持ちで取ってる画面はぐわんぐわんして、焦点が甘め(多分わざとやってるところがある)なので輪郭がぼけて残像がよく残った。途中で出そうになった(2つの意味で)。でも、出なくて良かった。

面白かった。

私は構造がきちんとしている作品が好きなので、こういうのが大好きである。それぞれの構造に意味があり、別の構造を立たせるために映像の細部に意味を残す。そして、それ自体がテーマになっているのがいい。演劇というリアルタイムで虚構を作る作品に関わっていたので、この作品は個人的に染みる。実際にああいうことは、ある。

見ながら考えていたのは、前振りを引っ張っていくことの難しさについてだ。具体的に言うなら、「先にはなにかあるんだろうな」というギリギリのところで客を引きつけるということ。ここからはネタバレになるので一応隠しておく。


この作品は2段階構成になっている。前半は、実際に放映されたドラマのワンカット映像。後半は、そのドラマを撮影する舞台裏である。ドラマを撮っている最中様々な問題が起こり、それを行き当たりばったりで解決する。そのため、前半のドラマを見ると脇が甘かったり変だったりする部分がたくさんある。それだけ見ればただのテンポが悪いゾンビスプラッター映画だ。その伏線を、後半で回収していく。

だけど、前半の途中で少しでも「……これ、つまんないな」と思わせてしまってはいけない。先に何かあるとわかっていても、目の前にある映像のつまらなさが閾値を超えてしまえば、客は多分寝てしまうだろう。それを解消するには、「伏線をさり気なくしてきちんとドラマをする」というのがある。でも、この作品はその伏線自体がテーマになっているから、伏線はこれでもかと出して置かなければいけない。そこで、伏線自体がコメディとして成立するギリギリのラインを取りながら、スプラッター映画として見ていられる最低ラインを提示する。脇の甘さ自体を伏線にしつつ、ほんの一歩気を許したら客が離れてしまう、その寸前で綱渡りをする。そこが、神がかっている。

「伏線はさり気なく出さなければいけない」わけじゃない。作品を成立させるには何が必要か、それを考えればいい。そうしながら、客を、そして作者自身を最後まで引っ張っていくエネルギー、それこそが作品を成立させるのだ。

ここからは余談。先があることをとりあえず信じさせながらギリギリのところでなんとかやっていく……これって人生そのものですよね。そういう意味で、監督が「カメラを止めるな!」と叫ぶのは心がじいんとなる。映画も、演劇も、小説も、人生も、面白さのギリギリのラインまで自分を騙し通すものだ。我々は我々のカメラを止めずにやっていくしかない。