他者そして自分のカリカチュアーー死体泥棒

騎士団長殺し』と同じタイミングで『死体泥棒』を読んだのは偶然なのだけれど、世界に置いて行かれた人を描写しているという意味でこの2つはとても良く似ている。

『CARNIVAL』のシナリオライターとして有名な瀬戸口廉也。小説家としての名義が唐辺葉介である。世界の中で心を持ち忘れた、あるいは奪われる人たちを描くのが異常にうまい作家だと思う。彼の作品については以下の記事が詳しい。

nyalra.hatenablog.com

『死体泥棒』はその中でも非常にソフトでシンプルな作品である。急に亡くなった彼女の死体を盗み出す男の話。だけど、そこに至る主人公の「世界に置いていかれている」状態や、彼に惹かれる壊れた人たちが緩急つけて描写されることで、この世界自体への懐疑に人を追い込んでいく。美しい感傷に浸ることも、スプラッタな快感に酔うことも許されず、ゆうるりとした思考停止と諦観だけを残して物語は去っていく。梶井基次郎の作風に非常に近いと思うが、こちらの方がより世界を信じていない。

前の段落で「緩急つけて描写」という言葉を使ったけれど、この本が気持ちをざわつかせる一番の要因がこれだと思う。特に周囲の人物に関する部分が顕著で、カリカチュアのような人物描写というか、過剰に主人公の印象が誇張された描写になっている。嫌な人間はよりいやらしく、好きな人間はよりこのましく。また、主人公は自分のことを描写するとき、また人に自分を開示するときにことさら露悪的になる。それによって視点を共有している私の居心地はなおさら悪くなる。自分の嫌なところを人前で暴露しているような、そんな気さえしてくるのだ。

小野小町も一皮向けばただの髑髏」という言葉があったはずなのだけど、死体というのはどちらなのだろう。そのままにしておけば、犯罪者も聖人も関係なく腐肉になる。しかし、死体という状態は元の人間から言動を抜いたものであり、むしろ生者より美しい気すらしてくる。いずれにせよ、死体に他者以上の価値(好意も嫌悪も含め)を見出すのは生者であり、死体の扱いはそのまま生者の目線を投影するものとなる。それを物体として扱うのか、死者として扱うのか、それとも――というのは、主人公自身、いや私自身の暴露と同義なのかもしれない。

日常の陥穽

図書館で上下巻を一気に借りた。家に帰ってよく見たら、どちらも下巻だった。よりにもよって、という感じだ。
図書館に同じ本は2冊ない、という思い込みが確認を怠らせたのだろう。だが、有名な本だとそういうことがままある。日常の陥穽、という感じだ(否、私が愚かなだけだ)。

それはあまねく訪れる――学園七不思議

つのだじろうの『学園七不思議』をだらだらと読んでいた。アニメの方は未見。美少女ってわけではないが、全体的に女の子の顔がひねくれていてかわいい。特にいじけた口が好きだ。やはりホラーと女の子はワンセットだ。

いくつかの学園編に分かれていて、主人公となるショートカット少女と黒髪ロング霊感少女が登場する。やっていることはほぼ一緒で、主人公とその周りの友人知人たちが何らかのオカルト事件に巻き込まれる。それなのになぜ、それぞれの学園に分ける必要があるのか。主人公が死ぬからだ。

驚くべきことに主人公が死ぬ。連続短編ものの主人公は語り手を担っていることもあり、あまり死なないことが多い。だけどこの漫画は、それぞれの学園編が主人公の死によって終了する。主人公補正などなにもない。

オカルトに興味本位で首をつっこむ彼女らは、漫画を動かすのにとてもありがたい存在だが、オカルト事件の死亡フラグを立てまくる嫌なやつらでもある。つのだじろうは容赦しない。引っ掻き回されたさまようものたちは、相手の立場や容姿や地位など考えず、平等に闇を見せる。だからこそ神秘的で、根源の恐怖を引き起こすのだ。生者にあまねく訪れる死のように。そのために、主人公たちはきちんと死ぬ。

へんなかばん

ある程度の年齢になると、ユーモア系のアイテムを「素」で持っているだけで一人前と扱われない。私は社会からドロップアウトしている身なので、自分が好きな変なものを持ち歩いているのだけれど、そうでないときに比べ周りの人たちの目が厳しいというか、ぎょっとした顔をされる。そしてひきつった笑いをしながら応答される。ティッシュとかくれなかったりするし、大人をターゲットにしたサービスへの声はかけてもらえなくなる。なぜかモバイルルーターの勧誘はよくかかる(ギーク系に見えているのだろうか)。意外とみんな人の持ち物見ているものなんだなあ。

なんて思っていたが、これは私が勝手に引け目を感じているだけなのかもしれない。これからも魚のかばんとか持ち歩くぞ。

リッツくらい大きなダイアモンド

「そんなのぜんぜんお話にもならないさ。だって僕の父は、リッツ・カールトン・ホテルよりも大きなダイアモンドを持っているんだもの」

『リッツくらい大きなダイアモンド』は、フィッツジェラルドの小説としてはちょっとだけ珍しい。フィッツジェラルドの大抵の小説は、リアルで重苦しい現実にちょっとだけファンタジーをまとわせて絢爛豪華にするものだけれど、この小説の場合は逆だ。おとぎ話にちょっとだけ現実を含ませている。ぐったりと絡みつくラストは同様だけど。

この小説では、にっちもさっちも行かなくなった人ではなく、にっちもさっちも行かないようにする人たちに筆が割かれている。つまり、金持ち。『おぼっちゃまくん』みたいな世界観がこれでもかと描写され、貧しきものを省みない金持ち一家が描かれる。その中で一人、批判的な目を向ける娘のキスミンがいて、庶民のジョンと恋に落ちる。だけどラストでは、すべての人がにっちもさっちも行かなくなる。金持ちが勝ち抜けるわけでもなく、反対者たちが幸せに暮らすわけでもない。みなが苦しい立場(または死)に至っておしまい。

おとぎ話だからこそ、ラストでのシニカルさや容赦のなさにがっつりと圧し折られるのだ。