一八八八 切り裂きジャック

一時期TSUTAYAの本棚に『この闇と光』が並べられていた。それを見て私は『テレヴィジョン・シティ』の人だと思っていた。……長野まゆみと間違えていたのだ。語弊を恐れずに言えば、結構似ていると思う。

というわけで『一八八八 切り裂きジャック』。この本は闇に彩られた十九世紀のロンドンを舞台に、日本からの留学生二人が切り裂きジャックの謎にせまるお話である。

探偵役は容姿端麗な奇人天才、ワトスン役は頼りなくて真面目な秀才という、京極堂でよく見たようなペアである。このタイプの登場人物は非常に萌えを呼び起こしやすいのだけれど、現代を舞台にすると浮いてしまう。でも、ヴィクトリア朝ロンドンという夢か現か幻かわからん舞台をフィルターにすれば、靄に霞んで妙にしっくり馴染む。そういえば、百鬼夜行シリーズも妖怪と戦後日本というフィルターを通すから、京極堂や榎木津や関口君が現実味を帯びるんですよね。勉強になるなあ、なんて思ってしまった。

フィクション世界を成り立たせるための大ぼらが豪華絢爛で、幻惑されるうちに事件が起こる。だから、何が起こってもおかしくないような気持ちになって最後のオチに続く。その流れがとてもうまい。まあ、小難しいことはいいので、自信満々探偵とよたよたワトスンが好きな人はぜひどうぞ。

エクソダス症候群

宮内悠介はSF・ミステリ・純文学とジャンルを超えたレーベルで作品を重ねる作家である。その中心にあるのは結構エモーショナルな動機と、それに肉付けする資料を読み込む粘着気質にあるのかもしれない。

エクソダス症候群』は、精神疾患とその治療に関わる根本的な疑問を、エモーショナルな問いからスタートさせ、ミステリに昇華した話だ。私は心理学を少しかじっただけの人間だけど、こころの病気というものがどれだけ調べても、触れても、そして自分が罹患してでさえもふわふわしたものであるという感想は一貫している。こころの病気は、患者からも、治療者からも、家族からも、外部の他者からも、どう触っていいのかわからない爆弾のような存在として扱われる。

こころの病気を作品として扱うために、宮内悠介は架空の病気と舞台を用意した。火星の精神病院。病気とは環境と表裏一体だから、環境が変われば異なる病気が表れるし、もともと存在した病気ですら異なる形態を見せる。だから、患者や治療者が未知の病気をどう「自分たちのもの」にしていくかという過程を描けるようになる。

そう、病気とうまく付き合うためには、どう触っていいのかわからない爆弾を「自分たちのもの」として内化する必要がある。その理解は、実際に病気と付き合ってみた手触りからくる、なんというか直感的なところに由来する(頭のいい人なら実例から推測できるのかもしれないけれど、実感するためにはやはり直接触れる必要があるだろう)。その疑問と糸口をエモーショナルな動機として、物語が動いていく。

また、いかに実感したとしても、それをきちんと説明するためには国内外の資料を読み込む必要がある。文章を読み、実感と結びつけていくためには、かなりの熱量が必要だ。執着と言ってもいい。こころの病気をこの視点からきちんと具象化している本はあまりない。宮内悠介がそれを可能にしているのは、その両軸を持っているからだろう。

引っ張られる体

医者から出された薬が合わなかったらしく、眠くもないのに急に寝ることを繰り返して14時間寝てしまった。寝ている間夢を見た覚えすらない。あれは何だったんだ……。

寝すぎた日は体が半分地面に沈み、上半分が浮いているような気持ちになる。上下に引っ張られているような気持ち悪さがずっと続き、何もできない。ただ中途半端にネットサーフィンしているが、特に面白いわけでもない。

明日はもう少しまともになるといいのだけれど。

うつにっき

本を読むことは特に偉いことでもない。ただの娯楽である。少なくとも私にとってはそうである。ただ、参入障壁が少しだけ高いというのはわからなくもない。長い文章を読み続けるのは時間コストを払わなければならないし、その長い期間の大部分で面白いと思わせるコンテンツでないと読むのをやめてしまうだろう。テレビやネットはたとえ途中が切れたとしても及第点以上の面白さがあるし、他のこともしやすい。

また、大抵の娯楽はコミュニケーションとつながっているので、その強制力がある意味娯楽への参加を促すきっかけにもなる。その点から見ると、本は自分の中で終わってしまうから、強制力がない。だからこそ、持続するモチベーションにつながらない。

私が読書を続けるのはまさに上記の2点によるのかもしれない。つまり、時間コストを払う必要があることと、自分の中で完結できることである。本は、外にいるときに他者をシャットダウンできる、疑似引きこもり装置として機能しているのだ。本の使い方を悪い方向に捻じ曲げているのかもしれないが、性質と結びついているのでどうもやめられない。

ますます私の状態はひどくなっていく、そんな気がする。先のことはわからないけれど。

グルグル回る

円城塔の『文字渦』を今読んでいる。少しずつしか進まないし、もう3周くらいしないときちんとまとまった感想は書けなさそう。ただ、円城塔作品に共通するテーマのことは少し考えていたので、忘れないうちに書き留めておく。

被創造物と創造者が互いを変更し合う反復構造。無限に続くこと自体が想像世界を作り出すようなダイナミズム。この2つがキーになっている。反復構造と無限連鎖。フラクタル構造のようだ。

私はかねがね「造られたものと造ったものとの関係はどうして非対称なのだろう」なんて言い続けてきた狂人ではある。でも、これを解消するには何が必要なのか、という次の問いについてはうまく進めていなかった(その前の問いすら解決していないけど)。でも、円城塔の物語はそこを飛び越えて、「永遠の反復」によって互いが影響を与え合う。これを読んでいる読者すら創造物に含まれ、観測という行為によって更に作品が変更されることを織り込む。このあたりから演繹的に先程の問いへのアプローチが見つかる、かもしれない。

それはともかく円城塔の本はわからない。というか、わからないということ自体が作品を組み立てている。困ったものだ。だからこそ読み続けてしまう。

全レス100人組手

note.mu

人間の対話って結構パターンが決まっているんだなあと思いながら読んだ。

これ、コミュニケーションの練習になるのでは。こんなにリプライが付くような面白い話できないけれど。

ミカるんX

特撮、宇宙、哲学、SF、格闘技、そしておっぱい。作者が好きなものをすべて詰め込みました……という漫画。大ぼらをしれっとした顔で語り、力技ですべてを抑え込む。筋立て自体は特撮モノの定番に則っているので割とシンプルなのが、「この人わかってるなあ」感を出している。

8巻でカッシアスが言っている話はほんとうにそのとおりで、卑小な人間たちが答えることはできない。この話は人間讃歌だから、あの終わりでもいい。人間の愚かで誇るべき特質を見せつけるように、彼はあの道を用意した。彼女たちは人間を守るために戦ってきたのだから、人間を捨てることが物語の要請上できないというのもある。でも、航行者としてたった二人が宇宙をゆく道はどうしようもなく美しい、そんな気がしてしまう。

……うまくまとめきれない。今日はここでおしまい。

ウテナ』の『永遠のものなんてあるわけないのにね」という言葉に対して答えを見つけるきっかけになるかもしれない。