頭が良かった僕らへのレクイエム

昔は頭が良かった。そんな発言がインターネットの海にはごろごろ転がっている。かくいう僕もそういうタイプである。

この場合の「昔は頭が良かった」は「勉強の成績がよかった」ことであり、この発言の裏にある「今はそうでもない」には「今の俺はあのときほど評価されていない」が含まれている。で、お気づきだと思うが、両発言には評価軸のズレが有る。学校の勉強と社会的価値。この両者は一緒くたにして考えても意味がないはずなのだけど、まあ一緒に語られることが多い。それぞれの年齢(子どもと大人)において、外部評価の軸の最たるものだからだろう。

僕らはかつて頭が良いと言われていた。テストの成績が良かった。宿題だってちゃんとこなしていた。先生に聞かなくても、わからないところを解決することができた。
でも今は違う。仕事や研究で周りに評価されるような結果を出せない。こつこつすすめる集中力が「できない」という気持ちに押しつぶされてしまう。上の人に聞かなくてはわからず、聞くと怒られることもあるし聞いてもわからないことも多い。そこで初めて、自分が質問下手であることに気づく。

学校の勉強と社会の評価は違う。僕らは勉強ができるだけだった。勉強ができることと社会で大きな問題を解決できることをごっちゃにしてはいけない。そして、悲観する必要もない。学校の勉強ができた理由を考えれば、社会で自分が上手にできることも思いつく。学校の成績が良かったということは、何か決まった枠の中での操作がうまいということだ。暗記が得意なのか、論理操作がうまいのかは人によるけれど。

そして僕らは認めるべきだ。勉強ができて褒められた子どもの頃の僕はもういない。体力や集中力は衰えてしまった。でも、理不尽ではあるけれど、持ち駒でやりくりすることが生きるということなのだから、今の持ち駒でできることを探すしかない。幸い、勉強はできるタイプの頭を持った自分はここにいる。