逃げ出したいのか、消えてしまいたいのか
クウチュウ戦 "アモーレ" (Official Music Video)
クウチュウ戦というバンドの『アモーレ』という曲が好きで、何回も聞いている。過剰なまでの引っ掛かりをもつギュイギュイしたメロディーライン、意味を捉えようとするとするりと抜けていく歌詞、延長されたアウトロ。とてもつよい。
で、この曲は歌い出しが「逃げ出そうよ」なだけあって、どうも今いる場所から逃れ出すことをテーマの一つとしているようだ。癖が強い歌唱、映像的な歌詞……あれ、どこかで似たようなテーマの曲を聞いたような……
これだ。
というわけで、今回は唐突にこの2曲を比較する記事です。
先に言っておくと、曲の中に出てくる登場人物の感情と、曲を作った人の感情を結構ごっちゃにしています。本来なら分けるべきなのでしょうが、自分の思いつきをそのまま残したくて直しませんでした。なので、以下の記事は超個人的見解ということでご容赦ください。また、音楽シーンには詳しくないので、背景となった音楽史イベントとかはよく知りません。詳しい方教えてください。
歌詞はこちらから適宜引用します。全文はリンク先でどうぞ。
毛皮のマリーズ Mary Lou 歌詞 - 歌ネット
クウチュウ戦 アモーレ 歌詞 - 歌ネット
長いんで目次つけました。歌詞の内容を両方知っている方は最後の「何が言いたいかというと」に飛んでください。
共通点
まず、曲の説明も兼ねて共通点を洗い出しておく。ざっと共通点を挙げると、以下のようになる。
- 映画の中のような世界を描く
- 現実的なものから2人で逃げている
- 帰る気がなさそう
共通点1. 映画の中のような世界
これは日常で起きなさそうなイベントがストーリー仕立てになっていることを指す。『Mary Lou』についてはシンプルで、恋人どうしが何かを許されず、遠くへ逃げる*1内容となっている。いろいろ補ってしまえばコッテコテのラブロマンスだ。『アモーレ』は、状況はよくわからないが、地球上から抜け出して宇宙を旅している。
ねえ Mary Lou ずっと手をつないでいよう
夜が来て誰かが僕らを探しても
――そしてもう、どこへも帰らない!
火星まで行ったら 地球は古ぼけた思い出
共通点2. 現実っぽいものから2人で逃げている
『Mary Lou』は上記の通り、恋人たちの逃避行だ。3人以上ということもなく、「僕」と「Mary Lou」の2人が「大人」から逃げる。どこへ? 「どこか遠く」、「誰もいない遠くの街」へ。
対して『アモーレ』は、「僕」と「あなた」が「空」まで逃げている。「僕」と「あなた」の関係性は、曲のタイトルや「きつく手を結んで」などの歌詞からおそらく恋人どうし。何から逃げるのかは明示されていないけれど、「難しい顔した人たち」、ひいてはその人たちを含めた「地球」から逃げ出す内容となっている。どこへ……かはわからない。果てなく宇宙を逃げ続ける。
ああだから だからどこか遠くへ行こう
朝が来てみんなが目を覚ます前に
――ああ、誰もいない遠くの街へ!
逃げ出そうよ 澄み切った空まで
共通点3. 帰る気がなさそう
上記で上げた通り、どちらの歌でも恋人どうしが何か現実的なもの(あるいはそれを象徴するもの)から逃げ出している。そして、元いた場所に帰る気がない。『Mary Lou』では明示されているし、『アモーレ』は火星まで行って、「ここから先へは素晴らしいメロディが必要さ」なんてうそぶく(余談だがこの部分の歌詞が私の一番のお気に入りである)。
相違点
わざわざ共通点を挙げてきたけれど、引用した歌詞だけ見ても分かる通り、この2曲は結構違う。
- 逃げる手段
- ゴールがあるかどうか
- 「僕」(歌詞の主体)が能動的であるかどうか
相違点1. 逃げる手段
『Mary Lou』では歌詞の内容から、「どこか遠くの街」へとたどり着くための乗り物、少なくとも逃亡者2人が操作をしていない乗り物に乗っていることがわかる。私はなんとなく汽車ではないかと思ったが、それは映画のような歌詞から漂う懐古趣味からきたものだ。深夜特急でも夜行バスでもなんでもいいが、地に足がついた乗り物であろう。*2
対して『アモーレ』、こいつはヤバい。「神話の動物の背中」に乗って逃げるのだ。「空」まで。正確に言うと迎えに来るところまでなので、火星まで行ったりするのは別の手段の可能性もある。だが、「神話の動物」なんて言葉が出てくる時点で、『アモーレ』が非常にファンタジーな下敷きを持った曲であることは確かだ。
Mary Lou, 抱きしめた
ぬくもりに二人は夜を重ねて
同じ夢を見る Mary Lou
神話の動物の背中に乗って迎えに来てよ
相違点2. ゴールがあるかどうか
『Mary Lou』は、「すべて許される」場所、時期までの逃亡を歌った曲だ。どうも逃亡者(片方もしくは両方)は幼いらしく、今の場所だとそのことによって許されないのだという。求める場所が本当に存在するかどうかはともかく、存在することを夢見て逃亡する。『アモーレ』は、何を目的に逃げ出しているのかも不明瞭だし、「せつない宇宙」まで飛び出してどこまでも行ってしまうのだろう。
ねえMary Lou きっと大人になれば
そう全て許されるんだMary Lou
せつない宇宙で 迷わないように
相違点3. 「僕」が能動的であるかどうか
『Mary Lou』は、「僕」が「Mary Lou」を励ましながら進む曲だ。どちらが言い出したかはともかく、「僕」が今回の逃避行に積極的に関与している。
対して『アモーレ』は、「迎えに来てよ」という部分からして受動的だし、ほわほわと「神話の動物」に乗って地球外に出ていくような様子がある。
何が言いたいかというと
やたら冗長になってしまった。今まで挙げてきたことから、
- 『Mary Lou』は「許される」場所へと能動的に逃げ出していく。その場所があるかはわからない
- 『アモーレ』はなんとなく地球から完全に離れてしまう。手法も定かではないし、目的地は決まっていない
という点が推測できる。ここから、両方の曲のスタンスを読み取ると以下のようになる。
『Mary Lou』:ここではないどこかへの逃避行、その強い決意
コテコテのラブロマンス、幼い2人の逃避行……この曲は「許される」場所までの逃避行への憧れが詰まっている。「僕」が「Mary Lou」を励ましながら、どこか遠くを目指す。映画のラストシーンのようであり、逃げ出すところで映像は止まる*3。目的地が決まっていないのだから、歌では描かれないけれど、多分成功しない。失敗の不吉な予感をも含めて逃避行を描くことで、なお一層彼らの決意を美しくしている。これは、逃避行を限りなく美化し、結晶化し、憧れを叫ぶ曲だ。
ちょっとうがった見方をすると、それは、「逃避行をしたいけれどできない」という願望の裏返しかもしれない。今自分が逃げ出したい、そういう逃避行をしてみたい、一緒に世界を逃避行できるサムワンがほしいという意味なのかもしれない*4。何にせよ、この曲は激しい願望を叩きつける曲である。
『アモーレ』:ここではないどこかへの消失、そのゆるやかな死
対して『アモーレ』は、非常に受動的でゆるやかな逃亡である。自分で力を加えることなく、地球上から「僕」と「あなた」がほわほわと離れていく。手法はファンタジックだし、目的地も存在しない。そもそも、どんなところに行きたいかもわからない。ただ「素晴らしいメロディ」を持って、おそらく永遠に「空」を旅する。
これは死に近い状況だ。『Mary Lou』のような能動的な逃避行ではなく、いつの間にかどこかへそっと蒸発し、誰もいない場所で、当て所もなく宇宙を巡りつづける。『Mary Lou』が逃避行であるとすれば、『アモーレ』は消失だ。彼らは美しく俗世から消え(生命活動がどうなるかはともかく、実社会と関わらないという点でそれは死に近い)、永遠のときを二人で過ごす。
逃げ出すことへの憧れ、消えてしまうことへの渇き
両者はどちらも二度と戻らない逃亡だけれど、その求めるものは大きく違う。そして、そのテーマに対する感情も結構異なる。『Mary Lou』には逃避行自体を美化し強く憧れている節がある。『アモーレ』には、消失しなければどうしようもないような強制的な渇きがある。曲の長いアウトロは慟哭のように聞こえるし、PVには現実を嫌悪するが逃れられないようなモチーフが何度か登場する。
Mary Lou, 夢のような
甘い口づけを大人は知らない
あなたらしく甘い もう 終わりなく奏でたセレナーデ
わかりやすく淡い もう 未来まで照らしたその歌
私はどちらも好きだ。そして、どちらも苦しい。