風呂と村上春樹の本

バーナード嬢じゃないけど、村上春樹と向かい合うスタンスはなぜか難しいように取られがちだ。読書家としての立ち位置を問われているような感じ。

でもこれだけコンテンツが飽和した時代では、村上春樹だって一人の作家に過ぎないし、一時代を作った偉人とか総本山みたいな扱いをしなくてもいいと思う。だから以下の話は単純に本の感想というか、村上春樹の作品に対する思いつきに過ぎない。

私にとって村上春樹の作品は、風呂の中で読む本である。絶版にならないからへにょへにょになっても惜しくないし、どこから読んでも大丈夫。理屈を考えなくてもいいので頭をぼんやりさせるのに向いている。まさに風呂向きの本。
大抵風呂の中で読むのに向いているのは短編である。放っておくと風呂が冷たくなるまで本を読み始めるので、区切りがすぐ見える本がいい。だけど、村上春樹の場合は短編より長編の方が風呂に向いていると思う。
村上春樹の作品に登場する人間は、何かの象徴やメタファーであることが多い。鼠やユキ、五反田くんやすみれ、ナカタさんや星野ちゃん、カオルに青豆……あんまり実態がないというか、その物語の中でメタファーとして主人公と接する、クローズな人たちだ。
で、今挙げた登場人物は中編・長編ばかりである。短編だと急に人間っぽくなる感じがする。じゃあかえるくんとか氷男とかどうなのと言われると難しいけど、彼らも基本的に隣に来る可能性がある人たちとして書かれていると思う。生っぽくて、この世界で出会ってしまうかもしれない人たち。短編中で話が完結しない場合が多いからそう感じるのかもしれない。
だから、村上春樹の短編を読んでいると、その人たちといつか、もしかしたら明日、ややもすれば今の瞬間風呂の中で、出会うかもしれないという生っぽい恐怖がやってくる。だから、ぼんやりしたい風呂の中では長編を読む方が心おだやかな気持ちになる。
一応フォローしておくけど、私は村上春樹の短編にも長編にも同じだけ気に入った作品がある。『スプートニクの恋人』『レキシントンの幽霊』『4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うことについて』『1973年のピンボール』『ダンス・ダンス・ダンス』とか。

話は変わるけど、きくお(ボカロで曲を作っている人)の『しかばねの踊り』は、村上春樹の短編に出てくるような「ずっと隣にいて、まれに気づいてしまうかもしれない人たち」を思い出させる。きくおの曲についてもいつか感想を書きたい。

[Official HQ]Kikuo - しかばねの踊り "Shikabane no odori" - YouTube