虚構の中のほんとの話

三ツ星カラーズという漫画を読んだ。

小学生三人娘が上野でうろちょろする話。よつばと!苺ましまろに(自覚的に)似せているんだけど、主人公以外のキャラクターによって世界を拡張するところが面白いなあと思う。
この中で気になるのが斎藤という警官である。主人公三人におちょくられたり逆におちょくったりしている。それは他の登場人物と一緒なのだけど、こいつだけ「上野動物園前の交番で働くおまわりさん」という現実感のある職業についているため言動にハラハラするのだ。「職務中に遊んでていいんすか」「交番前でロケットランチャー持つなよ」「子どもだけで上野から秋葉原まで歩かせるのか」みたいな。私はそういう倫理観とか職務意識が欠如している人間なので、こういう警官を見ても特に何も感じない。だけど、「斎藤を(漫画の中の)他の人が見たらどう思うんだろう」っていうのが気になってしまうのだ。あれだけ糞ガキな主人公たちを見ていても何も感じないのに、どうしてなのだろう。
例えば上野という現実感を持った土地を扱っているからかもしれない。苺ましまろは浜松をモデルにしているけれど、あの子達が住んでいる具体的な場所とかは抽象化されている。よつばとはもっとわからない。でも、それだけではない。なぜなら交番の場所も明確で、警官がもっとハチャメチャやってるこち亀には違和感がないからである。
つまりこれはリアリティラインの話なのだ。斎藤は周りからおまわりさんとして扱われている(主要登場人物除く)が、主人公たちは割とやばいことをしている。それなのに主人公たちに対してはおまわりさんとしての振る舞いを見せない。このズレが、世界観のリアリティを崩すように感じるのだろう。斎藤の言動よりは、主要登場人物以外の斎藤の扱い方が気になっているのかもしれない。
こち亀の場合は全員ギャグ世界に存在することが明確である。部長ですら例外でなく、彼は両さんのヤバさを引き立てるために怒る役割を持った立派なコメディキャラなのである。だから主要登場人物以外が両さんを扱うとき、ギャグ世界でのハチャメチャとして処理される。「日常」と「ギャグ」を成立させるには、かなり緻密な計算が必要なのだ。