「泣ける」本

「泣ける」本や「心に突き刺さる」映画、「心を癒やす」コミックという謳い文句がある。それに惹かれる人もいれば、忌避する人もいる。私は後者に近い。だけど、何故そういう謳い文句を嫌がるのか、自分の中で整理がついていない。

おそらく、感情を押し付けられたような気になるからだと考えていたのだけど、気づいてしまった。「泣ける」みたいに商品を使ったときの感情を想像させるのは、広告の一大テクニックではないか。例えば、チョコレートに「とろける食感にめろめろ」とか書いてあったらイラつくだろうか。掃除機の広告で「お掃除らくらく、毎日快適」なんて書いてあったらどうだろう。銭湯だったら「ゆったりぽかぽか癒される」なんてよく書いてあるし。これと同じように、漫画に「ココロスクワレル」なんて書いてあったっていいじゃないか(これは実在の謳い文句なので多くは触れません)。

言葉遣いの違いや求められる感情方向のズレがあるので一概に語ることはできない。が、「泣ける」宣伝にイラつく人は、本や映画といった娯楽作品に対して求めるものが少し特殊なのではないかと思う。
なぜチョコレートではイラつかないのか。それは、チョコレートが持つ商品価値のベクトルがぶれないからである。好みに差はあるけれど、食べ物に求める効果は「美味しさ」である。掃除機に求める効果は「利便性」だし、温泉に求める効果は「快感」である。これは変わらないはずだ。
では、本に求める効果はどうだろうか。「泣ける」宣伝に惹かれる人は、ある種の感情(泣きたい、いい言葉を聞きたい、癒やされたい)を求めて本を読んでいるのかもしれない。だから、ここに関わる判断は掃除機やチョコレートと同じ。
でも「泣ける」宣伝が嫌いな人は、本に対して「どうしようもない経験」を求めているのではないかと思う。そこにベクトルはない。読んだ結果、泣いてしまうこともあるだろう。爆笑するかもしれない。最終的にどうなるかわからないけれど飲み込まれたい、自分の思索で得られない経験をしたいという願望によって本を読もうとしているわけである。だから、最初からベクトルを示している「泣ける」宣伝に対して不快感を覚えるのかもしれない。

というのが自分の感情に対する一考察。他の人は知らん。