集めることは生きること――オブジェクタム

記憶は全て断片化し、集めておかなければ雲散霧消する。情報もそう。忘れられる権利という言葉があるけれど、大局的に見ればネットの情報のほとんどはアーカイブされず、ジャンクの山として消えていく(もちろん悪意をもってアーカイブされ続ける場合もあり、忘れられる権利が不要なわけではない)し、どんなメディアもいつかは失われる。それでも僕らはいつか消える記憶を蓄えるし、必ず無意味なものとなる情報を知ろうとする。たくさんの欠片をとにかく集めること、まとめることは、いつか失われる自分自身を留めておこうとする意思の表れでもある。

『オブジェクタム』は、失われ続ける欠片を集合させ続ける祖父とそれを見る孫の話である。文章内には失われていく記憶の断片が散りばめられ、一見すべてが関係ないように見える。主人公である孫はその欠片を意味もわからず追いかけながら、それでもその意味を考え続ける。もちろん欠片自身に意味はないし、主人公が考えた意味も勝手な解釈にすぎない。しかし先程も述べたように、情報や記憶の切れ端をまとめ意味付けをすることは、自分自身を立脚し成立させようとする意思なのだ。彼は知らず知らずのうちに祖父からそれを教わり、やがて何らかの意味をまとめあげる。

掲載されている他の短編についても触れよう。『太陽の側の島』は、戦時中に離れて暮らす夫婦の往復書簡から成り立っている。ここで扱われているのは、離れていることがらが何らかによってつながっているということ。南の島にいる夫と日本で暮らす妻子は離れており、手紙によって情報がやり取りされるにすぎない。だけど二人の住む場所はリンクした不思議な出来事が起こる。また夫がいる島では生者と死者の境目がなくつながっている。

最後の夫の手紙で、島の人たちが「どこかからどこかへ移動している」最中であることが示される。彼は自分がその旅に入ってきたよそ者に過ぎないと考えているが、彼も含めてこの世のすべては「どこかからどこかへ移動している」最中なのではないかと僕は思っている。世界の全てはつながっていて、空間も時間も何ら僕たちを分かつものではない。政治的な主義も思想もなく、過去から未来まで、近くから遠くまで、すべてのものは連続的なのだ。

『L.H.O.O.Q』は、亡くなった妻の残した犬を探す夫の話。なんだか『ねじまき鳥クロニクル』で猫を探す話のようだ。犬を失うことでそれを成り立たせていた妻について思考する。この話で目立つのはやはり後半の展開なのだけれど、犬を逃してしまう状況の描写が間抜けでいい。