「普通」が崩れるこわさーー鳥肌が

ほむほむ(「愛よ」とか言っている方ではなく短歌作っている方)は、あまりに普通すぎて誰も取り上げないことを適切な言葉で取り出すことができる。短歌評論(出典忘れた)で「歌人ははっとするほど普通の人」ということを本人が言っていたのだけれど、まさにそのとおりだなあと思う。本当に普通のことを普通の最極端で捉え、これ以上ないほどぴったりな(日常の)言葉を使って提示する。こういう文才がほしい。

そんなほむほむの『鳥肌が』を読んだ。タイトルどおり日常の中のこわいことをテーマにした連作集である。エッセイと言ってもいいのかもしれないけれど、空想と現実をはっきり線引きしないところがこの人の持ち味だと思うので、連作集という言葉を使いたい。本人ないしは知人友人の経験から、日常のこわさを見出していく。

語られるこわさを分類すると、ほむほむが何を怖がっているかわかる。主体が自分または他者(環境)の2パターンあり、こわさの原因が「今認識している状態が実は異なっているかもしれない」というものと「今認識している状態が変わるかもしれない」という2パターン。これを掛け算して4パターンである。つまり、普通だと信じているものが普通でなかったり、普通だと信じているものがこれから異質なものに変わっていくということがこわいのだ。どんな人もそうだろう。だけどこれを言語化するのは、よほど「普通」に対して鋭敏でなければならない。「普通」に浸かりきっている人間は「普通」を定義することができないから。

私が好きなのは以下のエピソードである。子どもが生まれた後輩のお祝いに行ったら赤ちゃんを手渡されそうになったときの会話。

夫「慣れてないとうまく扱う自信がないってこともあるけど、別の不安を感じる人がいるらしいんです」
ほ「どういうこと?」
夫「つまり、一度も赤ちゃんを抱いたことのない人は、実際にそうした時、自分が何をするかわからない、って思うことがあるみたいなんです」
ほ「何をするかって、例えば……」
妻「窓からぽいって捨てちゃうとか」

こわいですね。