スプートニクの恋人

しばらく静養することになったけれど、何しよう。掃除をするのが一番合理的なのはわかっているのだが、何故か手が動かない。家を居心地よくすれば外で無駄な金を使わなくて済むのに……これ前も書いたな。

赤毛のアン』とか『長くつ下のピッピ』のwikipediaをなんとなく眺めていると、村上春樹の『スプートニクの恋人』を思い出した。ので、その話をする。

村上春樹の作品の中で一番好きだと言ってもいい。割と無頼な生き方をしてきた女の子が、女性に対して激しい恋に落ちる話。語り手は、その女の子に恋する男。

語り手の男は村上春樹の初期主人公と中期主人公のあいのこみたいな性格をしている。だけど、そいつが主人公にならないというのが村上春樹にしては珍しい。それまで「通り抜けるもの」だった女の子に主体性を持たせて、そちらの射影として語り手の男を動かしている。

主人公の女の子であるすみれは、男性的な役割を自分に課している。だけれど、物事の見方・感じ方が女性的で、アンビバレントな印象を与える。すみれが作家志望であり、あとの方に彼女の文章が出てくるのは、その相反する感情を明示するためだろう。そこのパートを読むと、中高生時代の「(何がかはわからないけれど)どちらでもない」気持ちが蘇ってきて、たまらなくなってしまう。

彼女が恋をする相手、ミュウは、まさにその「どちらでもない」時代に両極を奪われてしまった。すみれの激しい感情がミュウに向かうのは、ミュウが「どちらでもない」状態に取り残された人だから、かもしれない。二人はひととき交差して、そして離れ、宇宙を永遠に旅する。

語り手の男は、すみれを何らかの極に収束させる存在だ。こいつがいなければ、すみれは「どちらでもない」人として激しい才能を叩きつけ続けたかもしれない。でも、こいつがいなければ、ミュウのように「何者でもない」ものになってしまったかもしれない。それが救いかどうかはわからない。

「どちらでもない」すみれが何らかの存在によってそこから連れ出されるように、村上春樹の書く小説は段々モラトリアムを抜け出す話にシフトしていく。モラトリアム状態は激しいエネルギーを放つけれど、同時にミュウのように「何者でもない」ものになるかもしれない危険をはらんでいる。地下鉄サリン事件阪神淡路大震災のことも念頭にあるのだろう(『スプートニクの恋人』刊行は1999年)。

以下ちょっとだけネタバレ(画像ではなく下の「続きを読む」です)

私は、「何者でもない」存在になりたくないという気持ちは嫌というほどわかるし、「どちらでもない」状態が危険だというのもわかる。それでも、「どちらでもない」状態が許されない世の中は嫌いである。この本を読んで、最後、すみれが戻ってきてしまったことに安堵しながらも、どこか悲しい気持ちになってしまった。「どちらでもない」まま綱渡りをする人たちは、危なくて、本当に素敵だから。