しあわせの書

読者の幸せのために
未読の人に「しあわせの書」の
秘密を明かさないでください

「ラスト○分、あなたは驚愕する!」ではないけれど、大仕掛けをした小説や映画はそれを売りにすることがある。だけど、それを売りにした時点で「なんかあるんだな」ということがわかってしまう。その「なんか」がよほど面白くなければ、読者の心に浮かんだ期待を上回ることはできないだろう。というか、そのびっくりネタ以外に面白いところがあったとしても、その仕掛けのことばかり宣伝されてしまうと、別の部分の魅力が一切目に入らなくなってしまってもったいないと思う。

『しあわせの書』については西尾維新がインタビューで触れていた覚えがある。ミステリ界隈では有名な本なのだけど、感想は「ネタバレを避けよう、避けよう」として書いているものばかり。もうこれは「大ネタあるんですよー!」なんて触れ回っているのと一緒である。もうそこで本の面白さが損なわれた気がして、気になってはいたものの読まずに過ぎてしまった。ネタバレされても本の魅力は失われないと思っているけど、ネタバレ絶対ダメ派があまりに強硬だと、ネタバレされていないのに魅力が失われるという不思議な現象が起きる。

で、本のことを知ってから十数年。古本屋でたまたま出会った。古本屋の匂いと胡散臭い表紙がやけにマッチしていたので、大ネタのことが頭によぎりつつも買ってしまった。文庫裏のあらすじもこうきたもんだ。

マジシャンでもある著者が、この文庫本で試みた驚くべき企てを、どうか未読の方には明かさないでください。

どれだけハードルを上げる気なのだよ。ここで一度気が抜けつつも、あらすじ自体は結構面白そうなので読んでみた。

面白かった。

文章がうまいのだ。怪しい宗教団体の由来から始まり、探偵のヨギガンジーが雑なイタコとなるシーンからきれいに事件の始まりに進んでいく。読み進めて引っかかるところがなく、会話は簡潔で、適度にコミカル。ここが伏線ですよー、というしつこさもなく、そうめんのようにスルスル読めてしまう。スルスル読めるから気づきにくいけれど、偏執的なほどの言葉へのこだわりが裏にあり、適切な場所で適切な言葉が選ばれている(これがどれだけ稀有なことであるか!)
そして、立板に水をかけるがごとくスルスル読めること自体が大仕掛けの魅力をアップする。

事件はかなりシンプルで、登場人物もあまり多くない。誰がいつどこで何をしているのかもつかみやすい。ある人の行動にちょっとした矛盾があるのだけれど、事件の大枠にはあまり関係ないのでこれはどうでもいいだろう。

凝りすぎていないように見えて細部まで気が届いている。あまり本を読み慣れていない人にもおすすめです。

SMAPについて考えても仕方ない

SMAPの人たちについて考えている。あれほど世間に愛され、蔑まれ、それすらもされずにおもちゃにされた芸能人はなかなかいないのではないか。日本で誰も彼らを肩代わりできず、烏合の衆に紛れることもできない。

なんてことを言っていたら、「その人たちの人生なんだから自分でなんとかせえよ」と言われてしまった。いや、ずっとその道にい続けてしまったから、自分でもうほかの場所に行くことを選べなくなってしまっているのでは。勝手につらい気持ちになってしまう。私がどうこう考えても仕方ないし、そもそも本人たちが辛いと思っているかどうかもわかんないんですけどね。

計画的に生きるための第一歩

薬局でもらう日時限定のクーポンを使えた試しがない。スーパーの「火曜日は野菜がお得!」みたいなのも計画的に行けない。あれみんなどうやってやってるんだろう。アラームでもかけているのだろうか。

まだ考え中

『魔女の子供はやってこない』の感想を今書こうとしているが、なかなかまとまらない。この本、あまりにも恐ろしい。

悪夢のようだったあの日を、絶対いたくないようなあのときを、自分できちんと来るように選ぶことができたなら、願うことができたのならば。それは、どうしようもない自分になってしまったことを、自分で選択できたということなのだろうか。

フリクリ見ずに終わりそう

フリクリ』の映画をやっているらしいのだけれど、見てきた人がみんな酷評している。見ようか迷っていたのだが、その評判を聞くとどうも尻込みしてしまう。劇場では見ずに終わりそう。

口コミの力が強いのは、相手の意見を内化してしまうからなのだろうか。映画『フリクリ』の感想を眺めているうちに、あたかも自分もすでに見ていて、一緒に文句を言っているような気持ちになったのは事実。それによって、(見てもいないのに)映画『フリクリ』の評価がどんどん下がっていく。

これは自分が体験したものですら効果を発揮する。自分が「まあまあだったかな」と思っていた映画や小説が、誰かの「つまらなかった」によって塗り替えられていく。思い出補正というのがあるけれど、思い出はいとも簡単に誰かの言葉に塗り替えられる。内的な補正と外的な補正。もしかしたら10年後、私は「映画フリクリを見たけどつまらなかった」なんて思い出をでっち上げているのかもしれない。

……こんなこと言っていたら逆に見るべきなんじゃないかと思ってきた。お金ないけど。

猫のゆりかご

『猫のゆりかご』のハヤカワ文庫を裏返してあらすじを見たのだけれど、これだけ見てわかるのだろうか。というか、この本の面白い部分が伝わるのだろうか……と心配になってしまう。以下の紹介文がすごく簡潔明快。wikipedia見ると始めから終わりまでの概要がすべて書いてあるので、ネタバレしたくない人は注意。

shinshibunsei.com

以下は私的な感想。

『猫のゆりかご』は世界終末の物語だ。いや、もう少し言えば、様々な人間が少しずつ絡み合うことで、ふとした拍子に世界が終わってしまう話である。

科学、宗教、国家といったものがちょっとしたほころび、寄り道、勇み足を見せる。それらの全てには登場人物たちのうら悲しい人間臭さが関わっている。一つ一つは小さな、ありふれた、つまらないくらいの「あぶない」意見や行動が、科学を蓄積し、宗教を作り上げ、国家を構築する。それによって、誰もスイッチを押していないのに、いや、みんながいっせーのーででスイッチを押したかのように、すとんと世界が終了する。そんな話である。

悲観的に聞こえるかもしれないが、そんなことはない。上記の「あぶない」行動は、一つ一つ取り上げるととてもコミカルだ。コミカルだからこそ、とても貧乏くさくて悲しい。現実世界の成り立ちもきっとこんなものなのだろう。終末ものはやたら美しく描かれたり、恐怖を煽ったりするものが多いけれど、この本はファニーで、すっとぼけていて、それゆえにきゅんと寂しくなる。